【観想】対面の出会い方、オンラインの出会い方
―人文社会科学部?松本光太郎准教授
茨城大学の研究者はCOVID-19で変化した世界をどう見ているのかを、率直な対話を通じてシェアする「観想―WITHコロナの世界」。第1回は発達心理学?環境心理学が専門の人文社会科学部?松本光太郎准教授です。(聞き手:茨城大学広報室?山崎一希)
爪切りはオンラインでできない
山崎 松本先生は最近、他人の爪を切る-他人に切ってもらうという行為と人間の発達との関係に注目した研究をしていますね。「ソーシャル?ディスタンシング」が要求される中では、「爪を切ってもらう」というような他人との物理的な接触をためらいがちです。その状況が僕たちの生き方や発達にどう影響するのか、といったことを聞いてみたいです。
松本 そうですね。対面とオンラインの違いということを最近よく考えています。今回のオンライン授業でも「よく習得できた」というアンケート結果が出て、学校での学びが不得手な学生がオンラインのほうが良く学べる、といったこともあります。
人間の発達やコミュニケーションにとって大事な「三項関係」という概念があります。子どもが親の目線の先を見ることで、同じ対象物を見ることで成り立つ関係ですね。これが物理的に離れているオンライン上でもいくらか成り立つのではないか、と言われています。たとえば、SNSでアップしたものを通じて、他人同士が遠方にいても会話ができる、という「趣味縁」のような。そうすると、対面では可能だけどオンラインでは不可能なことって何だろう、と考えるわけですね。
私が研究している爪切りはオンラインじゃできないですよね。
山崎 そうですね。
松本 それから、オンラインでは相手と目が合わない、ということがあります。合っている気になるときはありますが、それはコンサートで演者と目が合った気がするのと同じです(笑)。実は以前から、目を合わせるのが苦手という学生が結構いるんですよ。でもそれって当たり前で、人が目を見るときって、ただ一方的に相手の目を見ているのではなくて、相手の目線を受け止めた上で押し返す、みたいなことをしているんですよ。だからずっと目を合わせるのって難しくて、時折目線を外したりして調整する。ところがオンラインではその苦労が一切ない。目が合わないことがデフォルトになって、目を合わせるべきかどうかみたいな悩みを感じないままでいられるんです。
爪切りというのも厄介で、爪を切られる赤ちゃんの痛みを、親は直接はわからないわけですから、相手の痛みを想像して、それを引き受けながら切らなければいけない。そういう意味でコミュニケーションというのは厄介なものなのですが、オンラインでは、その厄介さが省かれるわけです。
山崎 身体的、心理的な痛みの受け止め、あるいは交換みたいなことを考えなくて済む、と。
松本 それから、オンラインの特徴は、「対象」で、「表面」で、「言語」であることです。オンラインというのは、限りがあるモニターでやりとりをするもので、僕たちは区切られた形のある対象としてそこに向き合う。そして、表面しか見えない。たとえばオンライン麻雀を考えると、相手の背後に回って牌を見ることは絶対できません。一方で対面の場合は見ようとすれば見られるけど、ルールとして見ないようにしているわけです。オンラインでは表面しかなくて、相手の後ろに回れないんですね。それから、オンラインでは言語の位置づけが重くなります。汗をかいているや手が震えているといった身体の様子は分からず、言語だけで相手や状況の多くを理解し、判断しなければならない。人と人がつながるときも、自分はこういう人だという、属性に関する限られた情報をまず言語で表明しなければいけないわけです。
オンラインで恋は可能か
山崎 そういうオンラインの限られた状況でも、他人との親密さは生まれるのでしょうか。
松本 実はちょうど先日、ある学会でそういう話をする機会があったんです。ひとりぼっちのオンライン下やディスタンスをとらなければならないオフライン下で、出会いや恋に落ちることが可能か、という。そこで注目したのが、「無関係の関係」です。
山崎 無関係の関係?
松本 建築家の平田晃久さんが書いていたことなんです(建設中の水戸市民会館を設計した伊東豊雄さんの事務所にいた方です)。樹木の下で私たちは快適さを感じることがあるわけですが、樹木は人を快適にするためではなくて、光合成をするために枝葉を広げるわけですね。そんなふうに、樹木と人間という目的の異なるものが、結果として良い関係をつくることがあります。それが「無関係の関係」です。私が研究しているお掃除ロボットも、ずっと見ているうちに愛着を抱くことがある。しかしお掃除ロボットは掃除をしているのであって、人間に愛着を抱いてもらおうとしているわけではない。目的の異なるもの同士が結果的に良い関係をつくることがある。そうすると、人間同士がディスタンスをとらなければならない状況でも、お互いに交わらなくても、相手のことを見ていたり、あるいは自分が知らない背後から見られていたりして、「無関係の関係」が生じるのではないか。「あの人がキャンパスにいるんだ」という楽しみを持つこと、さらにいえば片想いのようなことは可能なんじゃないかと思うんですよね。片想いって一方通行だから、お互い想い合うよりもエネルギーはすさまじいですよね。ディスタンスをとらなければならないから、大学生活は楽しみがないわけではなく、「片想いはできるよ」と学生に伝えたいです。
山崎 なるほど、ディスタンシングによって喚起される、あるいは強まる出会いもあるということですね。
簡単には適応できない
松本 すこし話が変わりますが、僕が今考えているのは1年生のことです。2年生以上は対面という経験をしているから、大学生活の全体像をわかっていて、今オンラインで行われていることについて、全体のうちの何が、どの程度代用されているかというイメージがわきます。ところが1年生はそうはいかない。大学で何が得られるのかがわからないまま、「大学」というものにぼんやりとした期待とか不安だけがある。それはやっぱり辛いと思いますよ。これまでオンラインのみのコミュニケーションだったからこそ、今後の友人や恋人との出会いは喜びが大きいと思っているのですが。
山崎 つまり、いずれオンラインとオフラインの往復が習慣になるとしても、その往復がオンラインからスタートするのか、オフラインからスタートするのかで、その後の経験のありようが異なるかも知れない、ということですね。
松本 はい。ただ、全面オンラインからスタートして、ある時期から急にオフラインが中心になるというときは、結構しんどいと思うんですよ。それなりのケアが必要だと思います。
山崎 デジタルネイティブの世代だから、オンラインとオフラインの切り替えは器用にできそうですけどね。
松本 どうでしょうかね。そんなふうに器用に立ち回れる人は確かにいますけど、それは全体のどの程度でしょうか。対面のコミュニケーションが好きで、周囲とうまくやれる人もいれば、オンラインの「表面」で、「言語」によるコミュニ―ションが得意な人もいる。環境の変化に、人はそうそう簡単に適応できるわけではないと思います。
山崎 それを前提にすると、大学としてオンラインベースから対面ベースに切り替えるときに、学生に対するケアというのは具体的にどういうことを考えれば良いでしょうか。
松本 それは大学が学生に対してどんな力をつけたいと考えるかによって変わりますよね。オンラインでの言語的なコミュニケーションに強い人を育てたいのか、フィジカルな場で活躍できる人を育てたいのか、あるいはスイッチできる人なのか。そういう大学の方向性を言語化する必要がありますし、一方の学生や受験生もそういうことを意識して大学や学部や学科を選んでいるんじゃないでしょうか。
山崎 なるほど。オンラインのコミュニケーションをベースに過ごしていると、言語に頼ったコミュニケーションのスキルは高まる一方で、相手の背後に回る、回られる心配がないという関係性の中では、減退してしまう能力もありそうですね。
松本 それと関係しているかどうかははっきりわからないですけど、学生たちの様子を見ていると、対面でのコミュニケーションでも、相手の背後には回らないようにしようという意識は感じますね。
山崎 相手の個人的な背景とか、そういう深いところには立ち入らないようにするという意識でしょうか。それは規範意識として定着しているのかもしれませんね。
原っぱか遊園地か
松本 爪切りの話に戻ると、大人は自分で爪が切れるし、子どもに比べて言葉で生きているところが大きい。ところが子どもは自分で爪が切れず、身体的に親に支えてもらわなければならない。高齢者も他人に身体のケアをしてもらうようになる。言語についても子どもは発達が不十分ですし、年をとると今度は耳が遠くなる、目が見えづらくなる、という形でやっぱり言語的なコミュニケーションから離れていきます。そうなると、今のオンラインのコミュニケーションというのは、大人にとって非常に使いやすい、そこに合ったようなシステムなんですが、その両脇にいる子どもや高齢者というのはそこからいくらか離れていくわけですね。
山崎 なるほど。そうすると、今、ICT教育ということで小さな子どもたちもオンラインを使った学習に取り組むようになっていますが、それは、「大人」に最適化したものを無邪気に子どもたちの世界へ広げている面があるともいえますよね。「侵略」とでもいうか。その点では、反対に子どもの世界から大人の世界へ影響すべきこともあるかも知れません。
松本 その視点は大事だと思います。前学期の授業で取り上げた本の一冊が『原っぱと遊園地』という建築家の青木淳さんの書かれた本でした(青木さんは水戸芸術館を建設した際の現場責任者でした)。子どもの遊び場としての原っぱは、何もない空間で想像力を働かせながら遊ぶ場なのに対して、遊園地というのは大人が子どものためと思って周到にその遊びを設計するものです。今は子どもの遊びの領域から「原っぱ」的なものが失われていって、「遊園地」的なものがどんどん侵食してきている。
山崎 ICTを使った遊びや学習のアプリケーションというのは、意図的にプログラミングされたという点では「遊園地」的ですけど、物理的な「原っぱ」がなくなっていく中で、オンラインでありながら大人の意図が介入しない「原っぱ」的な場というのも、最近はいくらか出てきているような気もしますね。とはいえ、こうして「原っぱ」的なものとか、相手の背後に回る関係の大切さを求めてしまうというのは、結局僕たちのノスタルジーなんでしょうか。
松本 それを「ノスタルジー」と切り捨ててしまって良いか、ということが問われているということではないでしょうか。原っぱか遊園地かの選択は個人の問題だとしても、それぞれ何が得られるのか、あるいは得られないか、ということを、少なくとも僕たち研究者が提示していく必要があると思っています。
松本光太郎(まつもと?こうたろう)人文社会科学部准教授
2010年に茨城大学に着任。専門は発達心理学、環境心理学。著書に、『老いと外出:移動をめぐる心理生態学』(新曜社、近刊)、『ロボットの悲しみ:コミュニケーションをめぐる人とロボットの生態学』(共編著、新曜社、2014年)などがある。https://matsumoto-ken.tumblr.com/