酸化ルテニウムは本当に第三の磁性体か?
ー素粒子ミュオンと第一原理計算で挑む「悪魔の証明」
茨城大学の平石雅俊研究員と高エネルギー加速器研究機構(KEK)、名古屋大学などのグループは、反強磁性体でありながら電磁気特性が強磁性体と同じになる「第三の磁性体」の候補物質とされていた酸化ルテニウム(RuO 2)について、素粒子ミュオンを使った研究の結果、先行研究で報告されたそれらの好都合な性質が存在する可能性が限りなく低いことを、明らかにしました。
酸化ルテニウムはすでに磁気デバイスへの応用を目指した研究が進んでいますが、今回、その性質の存在性質に否定的な結果が得られたことから、応用研究だけでなく、電子状態の基本的な理解について再検討の必要があります。
本研究は米国科学誌「Physical Review Letters」の注目論文 (Editors' Suggestion) に選ばれました。
概要
普通の金属は磁石に引き寄せられず、「常磁性体」と呼ばれます。常磁性体の内部では、金属の原子が持つ電子のスピンと呼ばれる性質がてんでばらばらの方向を向いています。一方、鉄やニッケルなどは磁石に引き寄せられ、「強磁性体」と呼ばれます。強磁性体の性質はスピンが同じ向きにそろうことで現れ、モーターやハードディスクなどさまざまな応用があります。さらに、電子のスピンがそろうものの、そろう向きが互い違いに反対のものがあり、「反強磁性体」と呼ばれています。反強磁性体は磁石に引き寄せられないので、外から見ると常磁性体と区別がつきません。
金属はこれまで、この枠組みで分類されてきましたが、最近、反強磁性体の中に奇妙な性質を示すものがあると予想されています。反強磁性体なのでスピンのそろう向きは互い違いに反対なのに、強磁性体の特徴も持つという変わり種です。この変わり種が持つ性質を「交代磁性」と呼んでいます。交代磁性体は「第三の磁性体金属」と呼ばれることもあります。
交代磁性には、有用な性質が期待されます。強磁性体の特徴を持つので、ハードディスクのような磁気デバイスに応用できる一方で、周辺に磁場があってもその影響を受けません。ハードディスクや磁気カードに磁石を置くと磁気記録が消える可能性がありますが、そういうことは起きず、安定に動作できるのです。
酸化ルテニウムはそうした交代磁性を持つ金属の候補です。これまでは金属が持つ電子のスピンがばらばらでそろうことがなく、磁性を示さない通常の金属とされていました。しかし2017年に非常に微弱ながらもスピンが互い違いに逆向きにそろう反強磁性磁気秩序を示す可能性が報告されたことをきっかけに、交代磁性体の有力候補として盛んに研究されるようになりました。最近では交代磁性体で予想される物性や、その前提となる反強磁性的な磁気秩序の存在を支持する報告が相次いでいる中で、我々は磁気敏感な素粒子ミュオンを用いてその磁気特性を調べ直しました。
その結果、反強磁性秩序が存在する可能性が極めて低いこと、すなわち酸化ルテニウムは従来知られている通りの常磁性金属であることを明らかにしました。これは今後の応用だけでなく、基本的な電子状態に関する理解を再検討する必要があることを意味しています。本研究は米国科学誌「Physical Review Letters」の注目論文 (Editors' Suggestion) に選ばれました。
なお、ミュオン実験 (?SR)は大強度陽子加速器施設 (J-PARC) 物質?生命科学実験施設 (MLF) のミュオン科学実験施設 (MUSE) S1実験装置(ARTEMIS)にて、超純良試料を用いて行われました。
研究の背景
酸化ルテニウムは磁性を示さない通常の金属であるというのがこれまでの常識でしたが、2017年に反強磁性磁気秩序の存在が報告されて以降、反強磁性を示す物質として盛んに研究が行われるようになりました。実は酸化ルテニウムは、「異常ホール効果」と呼ばれる強磁性体特有の性質も示すことも分かっており、磁石に引き寄せられない常磁性体でありながら、強磁性の性質と反強磁性の性質の両方も持つ「交代磁性体」と呼ばれる変わった金属磁性体である可能性が指摘されています。しかし、先行研究で報告されていた交代磁性の前提である反強磁性に由来する信号が非常に弱かったため、磁気秩序が本当に存在するのかどうかを別の実験手法で確認する必要がありました。
研究のポイント
物質の磁気特性を調べるにはさまざまな手法がありますが、先行研究で使われていない手法、かつ磁気敏感な実験手法の一つであるμSR法を用いることにしました。高温超伝導体として有名な銅酸化物の母物質が反強磁性体であることを初めて示したのもμSR法で、その有効性はよく知られています。先行研究で報告されている磁気秩序由来の信号は非常に小さなものでしたが、本当に存在しているのであれば、μSR法で簡単に検出できるはずだと考えました。
試料の中のスピンがばらばらではなく、強磁性体のように同じ向きまたは反強磁性体のように互い違いに逆向きにスピンがそろう秩序が少しでもあれば、試料内部に磁場が発生します。入射したミュオンがその内部磁場を感じている場合、μSR時間スペクトルは図3の左に示したような回転信号となります。右は実験で得られたμSRの時間スペクトルで、ミュオンスピンの偏極率は時間と共に単調に減衰しているだけです。これは、ミュオンが有限の内部磁場を感じていないことを示しています。
交代磁性体や反強磁性体では正味の磁化はゼロですが、ミュオンのようにミクロな視点から見ると、磁場の大きさは物質内部で異なり有限の値をとります。しかしながら、場所によっては磁場が打ち消しあってゼロとなっている場所もあります。ミュオンが偶然にもそのような場所に安定して静止してしまう場合は、そもそも磁気秩序による有限の磁場を検出することができません。そこで、ミュオンが酸化ルテニウム中でどこに静止するのかを調べる必要がありますが、これは第一原理計算で調べることができます。
図4に示すように、計算の結果、ミュオンは酸素とおよそ0.1 nmの距離で結合した状態であることが明らかになり、報告されている磁気構造が存在する場合、この位置で磁場が打ち消し合うことはないことがシミュレーションから分かりました。そのシミュレーション結果が図3の左図で、報告されている磁気秩序を検出可能であることを意味しています。
その他、さまざまな可能性を検討?シミュレーションした結果、報告されている磁気構造のもとでミュオンがその磁気秩序を検出し損なうことはないということが分かりました。これはつまり、図3右図の説明として、ミュオンが有限の内部磁場を感じていないのは、磁気秩序が存在しないからである、ということになります。また、仮に磁気秩序が存在すると仮定した場合でも、ルテニウムに生じる電子スピンの大きさの上限値が報告値の1%以下であることも解析から明らかになりました。
図3の右に示したように、実験の結果、ミュオンが内部磁場を感じていないとこはすぐに分かりましたが、これだけでは「磁気秩序が存在しないことが明らかになった」、と言えるわけではないことにも気づきました。つまり、何らかの理由で磁気秩序を検出し損なっているのではないか、という不安が頭によぎりました。
と同時に、この研究はいわゆる悪魔の証明と同じで、ツチノコのような未確認生物が地球上のどこにも存在しないことを証明する、といったような困難に直面するのでは、という危惧も抱きました。しかしながら、μSRや先行研究で用いられた手法の実験原理をふまえ、磁気秩序を検出し損なう可能性をリストアップして一つずつチェックしました。研究が進むにつれて追加されたリストもありましたが、先行研究で報告された磁気秩序を検出し損なう可能性がないこと、つまり、過去報告された非常に弱い磁気秩序は存在しない、ということに確信を持てるまで考察を深めました。
酸化ルテニウムは交代磁性体であることを前提に、すでに次世代の磁気デバイスへの応用研究が盛んに行われています。その前提となる反強磁性体としての磁気秩序の存在に対して否定的な結果が得られたということは、応用研究だけでなく、電子状態の基本的な理解の再検討を促すきっかけになることが期待されます。
また、別グループによる最新の理論研究では、酸化ルテニウムは本質的に常磁性金属で、ルテニウムの格子欠陥が磁気秩序を誘起する可能性が報告されています。つまり、交代磁性の存在を支持するこれまでの実験結果が、ルテニウムの格子欠陥や不純物などに起因していること、すなわち酸化ルテニウム の本質ではなかった可能性を示唆しています。しかしながら、酸化ルテニウム における磁性を不純物や欠損などで制御できることも示唆するもので、今後のデバイス開発に対して新たな指針となりえるものです。ルテニウム格子欠陥のない超純良試料を用いて行われた本研究は、上記理論研究を支持する実験的事実としても非常に重要な知見となります。
論文情報
- タイトル:Nonmagnetic Ground State in RuO2 Revealed by Muon Spin Rotation
- 著者名:M.Hiraishi, H.Okabe, A.Koda, R.Kadono, T.Muroi, D.Hirai, and Z.Hiroi
- 雑誌名:Physical Review Letter 132, 166702 (2024).
- DOI: 10.1103/PhysRevLett.132.166702